環境・衛生薬学トピックス

硫化水素は毒か薬か?表裏一体の性質

筑波大学医学医療系 新開泰弘

硫化水素(H2S)と聞くと、「毒ガス」や「特徴的な腐卵臭」といったイメージをお持ちの方が多いかと思います。実際、硫化水素は歴史的に温泉地を含む火山地帯、天然ガスや石油の採取場、労働現場などで多くの事故を引き起こしてきました1,2)。また、近年では自殺の道具として用いられる事例も報告されています3)。一方で、この硫化水素が実は我々の体の中で産生されている生理活性物質であることを聞くと驚かれる人も多いことでしょう。そこで今回は、毒にも薬にもなり得る硫化水素イオウの話について、ご紹介できたらと思います。

 そもそも、硫化水素は太古より自然界に普遍的に存在するガスです。その昔、酸素を欠いた原始の地球ではイオウが生命の進化を促したとされ、最初に光合成を行ったバクテリアは、水(H2O)ではなく硫化水素(H2S)を利用する光合成細菌であると考えられています。酸素が生まれた後の地球環境においても、大量の硫化水素が生命の大量絶滅時に放出されていたとする報告もあります4)。現在においては、火山ガスや温泉が硫化水素の主な発生源です。人為的には、工業用の用途で製造されたりもしています。また、下水処理場やごみ処理場などにおいても、イオウが嫌気性細菌によって還元され硫化水素が発生します。硫化水素の比重は1.19と空気よりも少し重いために、低い場所にたまりやすい性質があります。

 ヒトは硫化水素を肺から吸入することよって曝露されますが、その毒性は強く、大気中の本邦における許容濃度(注1)は5 ppm(= 0.0005%)と設定されています5)。400 ppmを超えると生命に危険が生じ、700 ppmを超えると即死すると言われています1)。ヒトは卵が腐ったような特徴的な硫化水素の臭いを敏感に感じとることができますが(0.0005 ppmから臭いを感知可能)、気を付けなければいけないのは嗅覚を麻痺させる作用もあり、100 ppmを超えたあたりから臭いを感じなくなることが挙げられます6)。したがって、濃度が致死量を超えていても嗅覚で知覚できないケースもありえるのです。

 吸入した硫化水素は迅速に循環器系に入り、生理的条件下においては約80%が解離して反応性の高い硫化水素イオン(HS-)に変換されることから、生体内における硫化水素の本体は硫化水素イオンであると言っていいでしょう。その毒性発現メカニズムとしては、細胞内のミトコンドリア呼吸に重要な役割を果たすシトクロムcオキシダーゼの阻害が原因だと考えられていますが7)、様々な酵素の複雑な反応の結果だとする説もあり8)、完全に解明されている訳ではありません。いずれにしても、硫化水素イオンは体内の多くの器官系に影響を及ぼし、高濃度曝露の場合は吸入してすぐに意識を失い、呼吸不全および呼吸停止の結果、死に至ります。

 一方、硫化水素イオンにはこのような有害作用だけでなく、健康に良い働きもあることが近年明らかになりつつあります。というのも、私達の体の中には、cystathionine β-synthase、cystathionine γ-lyase、3-mercaptopyruvate sulfurtransferaseといった酵素群によって硫化水素を生体内で産生するシステムが存在し、それが体に良い作用を示すことが分かってきたからです9)硫化水素の善玉的側面については神経伝達の調節、血管平滑筋の弛緩、抗炎症作用、細胞保護作用など、特に2000年代以降、非常に数多くの報告がなされており注目を浴びています10)。我々の研究グループは、硫化水素イオン だけでなく、パースルフィド、ポリスルフィド(注2)などのようにイオウを含んだ反応性の高い分子群を総称して活性イオウ分子と呼び、その機能や有用性について現在研究を進めているところです11,12)

 毒ガスとして知られる硫化水素がなぜそのような良い働きも併せ持つのか、不思議に思われる方もいるかもしれません。おそらく、ヒトはイオウの反応性を利用することで硫化水素イオンなどを生理活性物質として体の中で産生して利用してきた反面、大気環境中で生成されうる高濃度の硫化水素ガスの曝露は、全く想定外の事象であったことが予想されます。ルネサンス初期、スイスの医師パラケルススは「すべての物質は毒であり、毒でないものは存在しない。毒と薬を区別するのは適切な量である。」という名言を残しました。硫化水素も毒になるか薬になるかは、その量が決め手になっていると言ってよいでしょう。


 キーワード: 硫化水素硫化水素イオンイオウ

【注釈】
(注1)許容濃度:労働者が1日8時間、1週間40時間程度、肉体的に激しくない労働強度で有害物質に曝露される場合に、当該有害物質の平均曝露濃度がこの数値以下であれば、ほとんどすべての労働者に健康上の悪い影響が見られないと判断される濃度。例え曝露時間が短い、あるいは労働強度が弱い場合でも、許容濃度を越える曝露は避けるべきであると言える。

(注2)パースルフィド、ポリスルフィド:システインなどのチオール(SH)基に過剰なイオウ原子が1つ付加した分子をパースルフィド(SSH)と呼び、2つ以上イオウ原子が付加した分子をポリスルフィド(SSSHなど)と呼ぶ。これらは通常のチオール基と比較して、いずれも高い抗酸化性を有する。また、硫化水素はこれらのパースルフィド分子種やポリスルフィド分子種からも生成される。


【参考資料・文献】

1)平林順一.火山ガスと防災.J. Mass Spectrom. Soc. Jpn., 51, 119-124, 2003.

2)厚生労働省ホームページ「酸素欠乏症・硫化水素中毒による労働災害発生状況」 (http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000171848.html

3)吉留敬,守屋文夫,宮石智.硫化水素.中毒研究,28, 346-349, 2015.

4)海保邦夫.ペルム紀末大量絶滅時の硫化水素大量放出事変.Res. Org. Geochem., 23/24, 5-11, 2008.

5)日本産業衛生学会.許容濃度等の勧告(2017年度).産業衛生学雑誌,59, 153-185, 2017.

6)Malone Rubright SL, Pearce LL, Peterson J. Environmental toxicology of hydrogen sulfide. Nitric Oxide, 71, 1–13, 2017.

7)Khan AA, Schuler MM, Prior MG, Yong S, Coppock RW, Florence LZ, Lillie LE. Effects of hydrogen sulfide exposure on lung mitochondrial respiratory chain enzymes in rats. Toxicol. Appl. Pharmacol., 103, 482–490, 1990.

8)Reiffenstein RJ, Hulbert WC, Roth SH. Toxicology of hydrogen sulfide. Ann. Rev. Pharmacol. Toxicol., 32, 109–134, 1992.

9)Predmore BL, Lefer DJ, Gojon G. Hydrogen sulfide in biochemistry and medicine. Antioxid. Redox Signal., 17, 119–140, 2012.

10)Szabo C. A timeline of hydrogen sulfide (H2S) research: From environmental toxin to biological mediator. Biochem. Pharmacol., 149, 5–19, 2018.

11)Shinaki Y, Masuda A, Akiyama M, Xian M, Kumagai Y. Cadmium-mediated activation of the HSP90/HSF1 pathway regulated by reactive persulfides/polysulfides. Toxicol. Sci., 156, 412–421, 2017.

12)Kumagai Y, Abiko Y. Environmental electrophiles: protein adducts, modulation of redox signaling and interaction with persulfides/polysulfides. Chem. Res. Toxicol., 30, 203–219, 2017.



(2018年3月30日 掲載)

日本薬学会 環境・衛生部会

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