環境・衛生薬学トピックス
自然界に普遍的に存在するトリチウム
福島第一原子力発電所の処理水放出のニュースからトリチウムという単語を耳にした人も多いかもしれません。トリチウム(三重水素, 3H*1)は水素の放射性同位体の一つであり,地上に降り注ぐ宇宙線と大気中の酸素や窒素との反応により自然に生じます。人工的には,原子炉の稼働により,ウランやプルトニウムの核分裂,ホウ素などの核反応,冷却水中にわずかに存在する重水素(2H, 存在比0.0015%)の中性子*2吸収等により生成します。なお,現在の環境中に存在するトリチウムの大部分は1945年以降に行われた大気圏内核実験および水爆実験によって拡散したものとされています1, 2)。
トリチウムはβ線*3と呼ばれる放射線を放出しながら徐々に崩壊し,約12.3年で元の量が半分になります。この放出されるβ線のエネルギーは,化石等の年代推定に使われる炭素14の約8分の1,化学実験で使われるリンの同位体(リン32)の約100分の1と弱く,水中では平均で0.56
µm(最大で6 µm)しか進めないことから体の外部被曝*4の影響はほぼありません (空気中でも飛距離は5 mm程度)。また,トリチウムは雨水(0.1–1 Bq*4/L程度)や食品などに広く存在しており,呼吸や飲食を介して毎日摂取しているために内部被曝*4が懸念されていますが,直径が約10 µmの動物細胞の核を通過することはできないような弱いエネルギーであるため,飲食からの健康影響も低いとされます3)。
摂取されたトリチウムは,速やかに体中に分布して尿,皮膚,呼気もしくは糞便中から排泄されます。トリチウムが水分子の一部として存在するトリチウム水*1を摂取した場合,約95%が10日以内に排泄され,残りはタンパク質や脂質などの有機化合物に取り込まれた有機結合型トリチウムとしてトリチウム水よりも長い期間体内に存在します。食品から有機結合型トリチウムを摂取すると,約50%以上がトリチウム水に変換されて排泄されます4, 5)。半減期が比較的長い有機結合型トリチウムの生物濃縮を危惧する声がありますが,カナダの原子力発電所敷地内にあった廃棄物管理区域由来のトリチウムが集積するPerch湖(約5000 Bq/L)での研究によると,湖に生息する魚介類や藻類組織中の有機結合型トリチウムの濃度は湖水のトリチウム濃度を超えないことから,トリチウムには生物濃縮*5がないことがわかりました6)。
ところで,東京電力は福島第一原子力発電所の汚染水を多核種除去設備(ALPS)等で処理し,トリチウム以外の放射性物質(62種類)が規制基準を下回る水をALPS処理水として排出しています。そのトリチウム濃度は1,500 Bq/L未満(0.022 mSv*6/年)であり(日本で環境放出する場合の安全規制の基準は60,000 Bq/L),世界保健機関(WHO)の飲料水水質ガイドラインである10,000
Bq/L(0.15 mSv/年)を大きく下回ります。ALPS処理水中のトリチウムの上限濃度の水を1年間毎日2 L摂取すると,0.02 mSv/年の被曝となります。100 mSv/年の被曝量を超えると線量に応じてがんの死亡率が増加するとされますが,自然放射線での世界平均被曝量が2.4
mSv/年であることや,東京都とニューヨーク間の飛行機による往復で0.1-0.2 mSvの被曝量であることなどを鑑みると,トリチウム被曝による健康リスクは低いと言えるのではないでしょうか。一方,ALPS処理水にはトリチウムだけではなく,β線を放出するセシウム137(半減期約30年)やβ線およびγ線を放出するヨウ素129(半減期約1570万年)などの他の核種もごく僅かに含まれることがあるため,当該処理水の生態系への影響に関して総合的な理解が重要と思われます。
*1 元素記号の左上は質量数を表す。一般的な水素(H)は原子核が陽子のみで質量数は1(1H)であるが,トリチウム(3H, 水素3)の原子核は陽子1つと中性子2つで構成されており質量数3の水素である。なお,水はHが2つと酸素(O)1つから成る化合物でH2Oと表され,その水素がトリチウムであるトリチウム水は3H2Oと表す。
*2 中性子とは陽子とともに原子核を構成する電気的に中性の粒子のこと。
*3 放射線は粒子線と電磁波に分けられる。α線およびβ線は粒子線に,γ線およびX線は電磁波に分類される。β線はアルミニウムなどの薄い金属板やアクリル板などで遮蔽することができる。
*4 外部被曝は体の外から放射線を受けること,内部被曝は体の内側から放射線を受けることを指す。
*5 生物が食事などから取り込んだ物質をその生物が生息している環境よりも高い濃度で生体内に蓄積することを生物濃縮という。
*6 Bq(ベクレル)は放射能の強さを表す単位であり,水や食べ物などに含まれる量を表す時に使用される。一方,Sv(シーボルト)は人体が受ける被曝線量を表し,どのような影響があるかを関連付ける時に使用される。
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【参考資料・文献】
1)柿内秀樹, トリチウムの環境動態及び測定技術, 日本原子力学会誌, 60(9), 537-541. doi.org/10.3327/jaesjb.60.9_537 (2018).
2) 日本放射線影響学会 放射線災害対応委員会, トリチウムによる健康影響.
3) 波多野雄治, トリチウムの保健物理の最前線 原子力施設でのトリチウム発生, 日本原子力学会誌, 63(10), 713-717. doi.org/10.3327/jaesjb.63.10_713 (2021).
4) Matsumoto H et al. Health effects triggered by tritium: how do we get public understanding based on scientifically supported evidence? J Radiat Res, 62(4), 557–563. doi: 10.1093/jrr/rrab029 (2021)
5) Masuda T and Yoshioka T. Estimation of radiation dose from ingested tritium in humans by administration of deuterium-labelled compounds and food. Sci Rep, 11(1), 2816. doi: 10.1038/s41598-021-82460-5 (2021).
6) 宮本霧子, IAEA EMRAS 環境モデル検証プロジエクトトリチウム&炭素14作業部会の活動, 保健物理, 43(1), 50–59. doi.org/10.5453/jhps.43.50 (2008).
日本薬学会 環境・衛生部会