環境・衛生薬学トピックス
メチル水銀と食物
北陸大学薬学部 山本 千夏
水俣病は1956(昭和31)年に公式確認された公害であり,現在ではその原因物質がメチル水銀であることは周知の事実です。水俣病は,工場排水に含まれたメチル水銀が水俣湾に棲息する魚介類へ高濃度に蓄積し,それを日常的に食べていた地域住民に数多く発症しました。一方,このような人為的な排出がない場合でも環境中には微量のメチル水銀が存在します。これは,火山活動や化石燃料の燃焼によって排出された無機水銀が,主に水環境中の微生物によってメチル化されるためです。このようにして生じた環境中のメチル水銀は,食物連鎖を介して魚介類を含む水棲動物の体内に蓄積していきます。そしてメチル水銀の濃度は,食物連鎖の上位に位置するマグロなどの大型肉食魚類で高くなる傾向があります。
メチル水銀の中毒症状のひとつにハンター・ラッセル症候群と呼ばれる中枢神経症状があり,感覚障害,運動失調,視野狭窄,聴力障害などがその代表的な症状です。ハンター・ラッセル症候群は水俣病に典型的に観察されますが,その出現が,直ちにメチル水銀中毒を意味する訳ではありません。また,水俣病は慢性,急性,胎児性に分類されますが,メチル水銀が蓄積した魚類をどのくらい,どういう時期に摂取したか(胎児の場合は妊婦)が発症の鍵となります。
ヒトの体内に蓄積しているメチル水銀のおよそ85%は,魚介類に由来するとされています。食物を介して摂取されたメチル水銀は,そのほとんどが消化管から吸収されると考えられています。吸収されたメチル水銀は体内のあらゆる組織に分布しますが,ヒトでは肝臓,腎臓に高く蓄積します。脳は血液-脳関門によって有害物質を取込まない構造になっていますが,メチル水銀は血液中でシステインとの複合体を形成し,メチオニンとの類似立体構造をとります。そして,アミノ酸輸送体を介して容易に脳組織に移行することが確認されています。体内に取込まれたメチル水銀は決して蓄積する一方ではなく,少しずつ便や尿へと排出され,ヒトにおける生物学的半減期は一般に50~70日といわれています1,2)。また,血中のメチル水銀は,ほぼ一定の割合で毛髪中に排泄されるため,毛髪中の水銀濃度を測ることにより血中のメチル水銀の濃度や体内蓄積量を推定することができます1,2)。
今日では,日本人の魚を食べる食習慣が,水俣病が初めて観察された頃とは大きく変わってきていることもあり,通常の魚介類の摂取量ではメチル水銀による健康影響は考えられません。しかしながら,胎児は,①胎盤からのメチル水銀の移行が容易であること,②胎児の脳の発達時期にメチル水銀に対する感受性が高くなること,などの理由で注意が必要です。そこで,日本政府は胎児への影響を考え,食物を介したメチル水銀の摂取量が多い北大西洋上のフェロー諸島と,インド洋上のセイシェル諸島での疫学調査結果をもとに,日本人の食習慣・食文化を考慮し,「妊娠している可能性のある方」を対象に食べ方の注意を公表しています3)。魚介類は例外なく微量の水銀を含有していますが,一般にその濃度は低く健康に害を及ぼすものではありません。重要な栄養(タンパク質,DHA,EPA,カルシウム等)を豊富に含む魚類は,健康な食生活を営む上で重要な食材であり,健やかな妊娠と出産に重要である栄養バランスの良い食事に欠かせないものです。妊娠中に食べる魚は,その種類と量とのバランスを考えて食べることが大切です。
【参考資料・文献】
1) | National Research Council. Committee on the Toxicological Effects of Methylmercury (2000) Toxicological Effects of Methylmercury, National Academy Press, Washington, D.C. |
2) | WHO (1990) IPCS Environmental Health Criteria 101 Methylmercury. Environmental Health Organization, Geneva. |
3) | http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/iyaku/syoku-anzen/suigin/051102-2.html |
4) |
農林水産省ホームページ
http://www.maff.go.jp/j/syouan/tikusui/gyokai/g_kenko/busitu/index.html |
5) |
厚生労働省ホームページ
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/iyaku/syoku-anzen/suigin/index.html |
6) |
環境省国立水俣病総合研究センターホームページ
http://www.nimd.go.jp/index.html |
日本薬学会 環境・衛生部会