環境・衛生薬学トピックス
我々の健康を脅かす大気汚染物質-多環芳香族炭化水素(PAH)類の発生と動態-
金沢大学医薬保健研究域・薬学系 亀田貴之
近年世界主要国において,肺がんによる死亡率は増加の一途を辿っています。肺がんによる死亡率増加の主たる要因の一つとして喫煙が挙げられることは言うまでもありませんが,大気中を浮遊する塵(粒子状物質;PM)などに付着した大気汚染物質もその原因のひとつであると言われています。ディーゼル車からの排出粒子(DEP)や,ガス状汚染物質が凝縮して生成する粒子は,気管・気管支や肺胞への沈着率が高い微小粒径粒子であるという特徴を持つため,その発生や大気内動態,そしてヒトの健康に及ぼす影響に大きな関心が寄せられています。
多環芳香族炭化水素(PAH)およびそのニトロ化体(NPAH)(図1(a)および(b))はPMから検出される有害化学物質で,発がん性や変異原性(遺伝子に変化を引き起こす性質)を有するものも数多く存在することが知られています。それらの多くは生体内で代謝されることにより,発がん性などの毒性を発現すると言われています。また近年,PAHの水酸化体(OHPAH)や酸化体(OPAH)(図1(c)および(d))がエストロゲン様作用などの内分泌かく乱作用(生体内におけるホルモンと似た作用)を示すことも報告されています1)。これら化学物質は上述した微小粒子中に特に多く含まれることから,その大気内動態の解明が急がれています。
環境中に存在するPAHは主として有機物の不完全燃焼による産物であり,ディーゼル車や暖房施設などの燃焼機関において,燃料中の直鎖炭化水素が短鎖のアルキルラジカルへと熱分解され,それらが環化・縮合を繰り返すことにより生成すると考えられています2)。このような燃焼由来の一次発生源より放出されたPAHは,その蒸気圧によりガス相と粒子相に分配され,大気中に拡散します。常温付近では,ナフタレンやアントラセンなど2,3環のPAHは主としてガス相に存在し,一方ベンゾ[α]ピレンなど5環以上を有するPAHは主に粒子相に存在します。また4環のPAHは両相に存在し,その分配は温度によって変化します。
大気中におけるPAHの消滅経路としては,光やO3,ラジカル種などによる酸化分解があげられます。特にガス相におけるPAHとOHラジカルとの反応は速く進行し,大気中PAHの主要な分解経路のひとつです。OHラジカルが光化学生成物質であり昼間の重要な反応活性種であるのに対して,夜間にはNO2とO3との反応によって生成するNO3ラジカルがPAHの分解に寄与すると考えられています3)。
OHラジカルやNO3ラジカルとPAHとの反応は,NO2存在下においてNPAHやOHPAH,OPAHの二次生成をもたらします(図2)。例えば,代表的な二次生成NPAHである2-ニトロフルオランテンは,燃焼排気粒子中からは検出されていないにもかかわらず,大気中の濃度は,DEP中に最も多く含まれているNPAHである1-ニトロピレンの大気中濃度を凌駕するほどに高くなることが知られています。このように,一次発生源からは検出されずに見過ごされてきた化合物が,大気中には高濃度で存在していることや,低有害性とみなされ重要視されていない化合物が,大気中の反応によって有害な物質を生成する事実は,単に特定の化合物に関する発生源からの排出を管理・抑制するだけでは,必ずしも大気環境の改善が充分ではないことを示しています。前駆物質の排出状況を的確に把握するとともに,それらの大気内での消滅プロセスや関連する反応までをも含めた,包括的な環境中動態の理解が必要であると考えられます。
また最近では,中国において石炭燃焼に由来する大量のPAH類が放出されていることや3),それらが海を越えて日本に飛来することがわかってきました4)。このような国境を越えた大気汚染の予測と評価を可能にするためには,各国におけるPAH類排出の現状を把握し,精度の良い排出インベントリーを作成するとともに,前述したような大気内での分解や二次生成等の反応の詳細を明らかにし,それらを加味したPAH類の大気輸送シミュレーションモデルを構築する必要があると言えるでしょう。
【参考資料】
引用文献
1) | Hayakawa, K., Onoda, Y., Tachikawa, C., Hosoi, S., Yoshida, M., Chung,S.W., Kizu, R., Toriba, A., Kameda, T., Tang, N., Estrogenic/antiestrogenic activities of polycyclic aromatic hydrocarbons and their monohydroxylated derivatives by yeast two-hybrid assay, J. Health Sci., 53, 562-570 (2007). |
2) | Richter, H., Howard, J.B., Formation of polycyclic aromatic hydrocarbons and their growth to soot—a review of chemical reaction pathways, Prog. Energy Combust. Sci., 26, 565-608 (2000). |
3) | Kameda, T., Inazu, K., Hisamatsu, Y., Takenaka, N., Bandow, H., Isomer distribution of nitrotriphenylenes in airborne particles, diesel exhaust particles, and the products of gas-phase radical-initiated nitration of triphenylene, Atmos. Environ., 40, 7742-7751 (2006). |
4) | Tang, N., Hattori, T., Taga, R., Igarashi, K., Yang, X., Tamura, K., Kakimoto, H., Mishukov, V.F., Toriba, A., Kizu, R., Hayakawa, K., Polycyclic aromatic hydrocarbons and nitropolycyclic aromatic hydrocarbons in urban air particulates and their relationship to emission sources in the Pan–Japan Sea countries, Atmos. Environ., 39, 5817-5826 (2005). |
5) | Yang, X., Okada, Y., Tang, N., Matsunaga, S., Tamura, K., Lin, J., Kameda, T., Toriba, A., Hayakawa, K., Long-range transport of polycyclic aromatic hydrocarbons from China to Japan, Atmos. Environ., 41, 2710-2718 (2007). |
図1 PAH,NPAH、OHPAH、OPAHの例
日本薬学会 環境・衛生部会